2023.02.13

それは「問い」なのか?質問か、発問か・・・はたまた詰問か

書籍「問いのデザイン」を読んでて、印象に残る内容があったので紹介しておきます。
 
 
 
質問・発問・問いの違いについて。
 
それぞれに対して「問う側」「問われる側」が答えを知っているのか知らないのか。その機能は何なのかを下記の表のようにまとめていました。
 
 
 
 
 
なるほどなあ、と。
 
この本では現代社会(読み替えれば現代日本における会社や組織)の病として「認識の固定化」と「関係性の固定化」が様々な問題を引き起こしているとしています。イノベーションをなかなか産めず、組織変革も進まず、あらゆるところで旧態からの変革ができていない日本のあらゆる組織には、長らく変化の乏しい時代を同質的な組織・揺らぎのない硬直化されたオペレーションによってこの二つモノが固定化されており、それがVUCA時代に物事が複雑化・多様化してきているにも関わらず、それらの変化に対する深い理解や、組織内での相互理解・創造的コミュニケーションを阻害しているとしています。
※話は飛びますが、東京オリンピックをめぐる組織ぐるみの受注調整の話など、こういう話の典型的な具体的事象に思います。本当に腹立たしいというか、情けないというか、、、、既に日本は諸外国に比べてもクリーン、公正とはとても言えない国となりました。
 
 
この認識・関係性の固定化を揺さぶり、アップデートに導くのが良い「問い」だとして、この書籍では問いをデザインすることを解いていきます。
 
 
 
この本に対する関心は、私たちNOKIOOも自社の組織を開発したり、事業開発をする中で、社内でいろいろ対話をし、外部のファシリテーターの力を借りながらその中で組織の在り方やサービスの創造をしてきた感触があるし、
 
 
 
事業を通じてもクライアント企業の抱える様々な課題や、「こうなりたい」を実現するパートナーとして、顧客とよくよく対話をする中で「問い」を武器に、言語化を促すことを大事にしてきたため、「よい問いとは何か?」「問いを“意図して”デザインするにはどうしたらいいか?」というような問いがまさに自分の中に立っていたところからであります。
付け加えるのなら、こちらは「問い」を切り口に対話をしたいと思っているけど、全く対話にならないケースも社内外のコミュニケーションで経験をしてきました。なぜそういうことが起きるのか?そんなこともまさに自分の中に立てられている僕自身の今向き合う問いです。
 
 
 
この書籍の全体像や要点、要約については今回は扱いませんが、読んでいる過程で、上記の「質問・発問・問いの違いについて」がストンと落ちたし、この違いを明確にされたことで、対話が上手くいかない、1on1が機能しないといった組織内の課題を解く認識のアップデートのヒントがありそうだったので、それを今回はブログに書いておきたいと思います。
 
 
 
ちなみに流行りのchatGTPに聞いたらこんな答えでした(笑)
 
 
 
chatGTPの回答は置いておいて、、、、
 
 
 
この書籍でこの質問・発問・問いの違いを整理された時に僕が感じたのは、僕も含めて多くの日本人は、これまでの学校教育や、これまでの組織の中でのコミュニケーションの中で、「問い」に対する誤った認識を社会的に認知で刷り込まれてきたのだろうと強く感じました。
 
例えばこんな観点です。
 
●問われたら「正解」を言うことが求められる
●問われている状態は“詰められている”状態かもしれない
●問いは攻撃。「勝者・敗者」の立ち位置づくりの手段なのでうまく使うといい
 
問われると相手は答えを持っていて、あるいは世の中には正解があって、それを自分は答えなければならない。だから問われることが怖い、とか。
昔、先生から上司から矢継ぎ早にいろんな事を問われて、答えられず、嫌な経験や思いをしたから、問われる=詰められているようなマイナス状況を想起してしまう、とか。
馬鹿なマスコミ・メディアの、電波を使って取り上げなくてもよい芸能人の記者会見で、立場劣勢の人が意地悪な質問によって攻撃されている様子を見て、問うことを攻撃の手段にできると刷り込まれてしまっている、とか。
 
これまでの日本社会が「問い」を上手に使い、相手との関係性を作り、相手と創造的に対話を促すトリガーとして使ってこなかったがゆえに、逆に問いに対する誤った認識や社会的認知ができてしまっているんだろうなあと。
 
 
その認知が潜在意識にあるまま1on1をしたり、顧客とヒアリング(本当は対話をしたい)の場がつくられたりすると、本当は対話の場として設けられているはずの1on1やワークショップ、面談、メンタリングといった場が機能しないどころか、もう二度とやりたくない場所になってしまうのだろう、と。
 
 
もちろん、質問、発問を使う場面もあるし、そうではなくて「問い」をしている場面もあるのだろうけど、場面の目的を頭に置き、3つのうちのどれを中心とするかを使い分けしないといけないのでは?と思ったのと、
 
組織内にこの問うことの区分を共通認識とし、時代が変わる中でお互いに「答えを知らない」ケースが圧倒的に増えてきているから、対話をしたいわけだし、対話のプロセスで「問い」を使っているのであって、その「問い」を起点にお互いに発言を積み上げたり、編み上げるよな場面を作りましょうよ!っていう空気を作っていかないといけないんだろうな、と思った。
 
さらに対話をしている時の「問い」はお互いに答えを持っているわけではないので、急がない、急かさない、答えはいつかふと降りてくる、そんな時間軸も大事にすることも気づきの一つです。
 
 
 
ちなみに僕は2017年頃に社内で公言しましたが、
 
あまりに時代が早くなり、環境も変わり、僕が社内メンバーの中で現場・顧客からどうしても一番遠い場所だとファクト量が少なく、過去の成功・失敗体験も役に立たない時代になっている中では、僕も正解が分からないです、と。だからみんなと一緒により良い方向を考えたいので知恵を貸してほしいし、議論を重ねていきたいし、その議論の場には立場が上も下も無くて、僕たちが成すべきことを成すための目的に向かって対話しよう。
 
的なことを言ったと思いますが、その考えは未だ変わらず、そうなのだと思っています。
  • NOKIOO
  • 小川健三