2026.10.18

AI時代に考える、IからWeへの転換と、私たちの人間観

先週は3連休に初めての薩摩会議へ参加し、そして浜松に戻ってから数日後に宇田川元一さん(経営学者・埼玉大学経済経営系大学院教授)と対話する機会をいただきましたが、両経験から、ここ数日間、「人称を自分の思考のベースにどう持つのか」ということを考えています。

 
 

宇田川さんとの対話の中で紹介いただいたのが、「長崎スタジアムシティで、経営するとはどういうことかを考えた」という記事です。長崎スタジアムシティの施設や運営の細部に表れている経営哲学を紹介しながら、顧客を三人称の抽象的な集団として捉えるのか、それとも二人称の具体的な一人の人間として捉えるのかによって、経営者が立てる問いが変わり、現場での判断や行動にも影響していく、という内容でした。

 

一方、薩摩会議では、出口康夫さん(京都大学 人と社会の未来研究院 特定教授)が提唱されている「We Turn」という考え方に触れました。社会の問題を誰かの問題として捉えるのではなく、「私たちはどうするのか」という一人称複数の視点で考えるというものです。

宇田川さんが語られていた三人称から二人称への転換と、薩摩会議で考えた一人称から一人称複数への転換は、一見すると異なる話ですが、僕の中では結果的に同じところにつながってきました。Weというのは、目の前のYouを包含した捉え方であり、自分と他者を切り離して考えるのではなく、関係性の中で物事を捉えるということなのだと思います。

なぜこうしたことを考えているのかというと、僕自身がより良い経営をすること、より良い社会がつくられることを考えたいからです。今の社会の状態が決して良い状態とは思えない中で、社会の空気を変えていくためには、どういう人間観や物事の捉え方が必要なのか。自分自身がNOKIOOという小さな会社の経営の中で、この15年ほど向き合ってきたこととも重なってきたので、現時点で考えていることを書き残しておきたいと思います。

 

個人の知的能力に力点が置かれてきた時代

ここからは出口さんのセッションを聞く中での僕の理解と解釈を織り交ぜながら書きます。明治維新後の日本の近代化の150年ほどを振り返ると、社会の中で力点が置かれてきたのは、個人が知的に何をできるか、ということだったのではないかということ。

個人の知識や思考力を高めることが良いとされ、学校教育もその方向でつくられてきた。社会で厚遇されるのも知的な能力や知的生産に関わる仕事であり、それを目指す個人にフォーカスされてきた時代だったのではないでしょうか。僕もその一人です。

人称的な表現でいくと、Iの時代です。「私は何ができるのか」「私はどうしたいのか」「私はどんな能力を持っているのか」ということに価値が置かれてきたわけです。もちろん、自己を確立し、自分の能力を高め、個人として成果を出すことは大事ですし、そうしたことによって社会が発展してきた面も大きいと思います。

ただ、今、この前提が揺らぎ始めているように感じています。AIの存在と、人類の存続すら危ぶまれるような、さまざまな地球規模の重たい課題によってです。

これまで人間が知的にできることとして価値を置いてきたものの多くを、AIが人間以上のスピードや規模でできるようになってきています。人間がこれまで優秀さの拠り所としてきた知的能力や知的生産の価値が相対的に変わってきているわけで、特に知的能力に自分の存在価値を置いてきた人にとっては、自分の尊厳が傷つけられるような感覚もあるのかもしれません。

加えて、今の社会を見渡すと、分断や気候変動、人口減少、戦争など、誰か一人の知識や能力を高めれば解決できるわけではない問題が増えています。異なる価値観や利害を持つ人たちが、どう折り合いをつけ、納得解をつくっていくのかという、いわゆる適応課題として向き合わなければならない問題です。

AIによって個人の知的能力の価値が変わってきたことも一つの要因ですが、それ以上に、社会の問題そのものが、Iを中心とした考え方ではどうにもできなくなってきているのではないかということです。

 

AIによってIが強化され、その先にWeへの転換があるのではないか

一方で、AIの普及によって、まず起こるのはIのさらなる強化だとも感じます。

AIを使って一人で事業を成立させるAIソロプレナーのような働き方が出てきていますし、AIで大量の文章やコンテンツを生産してアフィリエイトで稼ぐといったことも起きています。個人が持つ知的生産能力がAIによって拡張され、一人でできることが飛躍的に増えているわけです。

ただ、こうした方向に進めば進むほど、どこかで揺り戻しが起こるのではないかとも思っています。個人が効率よく、大量に何かを生産できることと、社会が良くなることは必ずしも一致しませんし、個人が自分の能力を拡張することだけでは解決できない問題も、ますます明らかになってくるのではないでしょうか。

そうした中で、あらためてWeの価値が見直されるのではないかと考えていますし、その揺り戻しをただ待つのではなく、僕たち自身もそのきっかけをつくっていく必要があるのではないかと感じました。

 

I、You、They、Weという4つの人称

今回、宇田川さんとの対話と薩摩会議での話を重ねながら、I、You、They、Weという4つの視点を整理してみました。

視点

問い

経営・社会での現れ方

I(私)

私は何ができるか

個人の能力、成果、キャリア

You(あなた)

あなたは何を感じ、何を必要としているか

顧客や社員一人ひとりへの関心、他者への想像力

They(彼ら)

彼らはどのような集団か

顧客セグメント、統計、コンバージョン率

We(私たち)

私たちはどうするのか

共同性、共創、当事者意識、相互依存

例えば、経営者が顧客をTheyとして見るのか、Youとして見るのか。顧客をある属性を持った集団として見て、転換率やコンバージョン率といった数字の世界で捉えるのか、それとも、目の前にいる一人の顧客が何を感じ、何に困っているのかを見るのかという違いです。

これは、僕自身が起業前にインターネット広告やデジタルマーケティングの仕事に関わる中で感じていたフラストレーションにもつながります。クリック率を1%改善すれば何がどうなる、というようなことをひたすら考えていたときに感じていた違和感です。

もちろん、データや数字で物事を見ることは必要ですが、その数字の向こう側にいる人をどのような存在として見ているのかということがそれ以上に大事なのだと思います。経営者がどの人称から世界を見ているかによって、生み出す問いが変わり、それが組織全体に波及し、細部のオペレーションや顧客接点の場面にまで現れてくるのではないでしょうか。

当社のManabiBaseでも、相手を単なる役割や属性として見るのではなく、一人の人間として関心を向け、関係性をつくっていくことをテーマにした「●●クエスト 冒険仲間の見つけ方」というワークショップを提供していますが、これもTheyからYouへの視点の転換につながる取り組みだと思います。

そして、僕が今回の薩摩会議からの振り返りの時間の中で考えているWeというのは、このYouを包含したものです。

自分とは異なる一人ひとりの存在に関心を向け、その人たちと自分が相互に影響し合い、依存し合っていることを認識する。Youへの関心を持たないまま、抽象的な「私たち」を語っても、それは本当の意味でのWeにはならないのではないかと思います。

そう考えると、宇田川さんの三人称から二人称への転換と、僕が考えているIからWeへの転換は、結果的に同じところに収斂していくのではないかと考えました。

 

Iの成立要件に、そもそもWeがある

ここで大事なのは、Iを否定することではありません。自分という存在を確立すること、自分の意思を持つこと、自分の能力を高めることは大事ですが、そのIという存在が、そもそも何によって成立しているのかを考えたいのです。

今、僕は机に向かってノートにペンで文章を書いていますが、この行為一つをとっても、机をつくった人がいて、ペンをつくった人がいて、今こうして考えるインスピレーションを与えてくれた人がいます。それらが無ければ、今この瞬間の自分は成り立たなかった。

普段は自分が何かをやっている、自分の能力で何かを成し遂げていると思っているけれど、実際には無数の人や物との関係性の中で、自分が成り立っている。そう考えると、自分一人では何もできないという根本的な「できなさ」を認める人間観が、Weの出発点になるのではないかと思うのです。

僕自身、社会で何か問題が起きたときに、その当事者を批判するというよりも、自分も含む日本社会がいまだにこういうことを起こしてしまうことに対して、情けない、悲しい、自己嫌悪のような感情を持った経験があります。これも、社会の問題を他人事ではなく、Weとして捉えていたということなのかもしれません。

Iを乗り越えるということは、Iをなくすことではなく、Iの成立要件としてWeがあることを認識し、社会で起きている問題に対しても「私たちはどうするのか」と考えることなのだと思います。

 

自然も含めたWeを、どう捉えるか

薩摩会議では、Weを人間同士の関係にとどめず、動植物や自然物にまで拡張するという話もありました。これは僕も納得するところです。

例えば、わが家のゴールデンレトリバーのテンちゃんは、僕にとっては家族としてのWeです。自然は人間が支配できるものだという考え方自体がおこがましく、大きな生態系、地球、自然の中で人間が生かされているという感覚までWeを拡張していく必要があるのだと思います。

一方で、薩摩会議の中で違和感を持った話もありました。風の音、イルカの声、地中の温度など、自然界のあらゆるものをデータ化し、AIを使って自然が人間に伝えようとしているメッセージを聞く、という話です。

その話を聞いたときに、僕はそれは人間が感じるものではないか、と思いました。自然の声を聞くために、膨大な資源やエネルギーを使ってAIを駆動させる。その行為自体が、すでに自然を含めたWeの視点になっていないのではないかと。

さらに、仮にAIが翻訳した自然のメッセージが、「人間が増えすぎて地球がしんどいので、人間を30%減らしてください」というものだったら、どうするのでしょうか。もちろん極端な仮定ですが、誰が犠牲になるのかを決め、それを実行することなどできるのでしょうか。

自然の声を聞くと言いながら、結局は人間が理解できる言葉に変換し、人間が判断する。その構図自体が、人間を中心に置いた考え方から抜け出せていないようにも思います。

AIを使って自然について知ることに意味がないと言いたいわけではありませんが、それよりも前に、自然の中で自分が生かされていることを感じるということが必要なのではないでしょうか。自然から具体的なメッセージを聞く前に、まずは感じるのである、ということです。

 

Weを身体で感じる経験を持つこと

こう考えていくと、普段の生活や仕事の中で、Weを体験し、体感する場面や機会をつくることが大事なのだと思いますし、そこには身体的な共同作業が伴うことも必要なのではないかと考えます。

薩摩会議セッションでもそうした例が示されました。お祭りのみこしを皆で担ぐような場面です。誰かの力が弱く、ある箇所が落ちそうになれば、そこに別の誰かが回る。一定の緊張感やリスクがあり、皆で引き受けているからこそ、一人だけ途中で降りるわけにもいかない。誰かが力を出し、誰かが補い、皆で一つのことを成し遂げるという経験の中で、Weというものを身体的に感じるのではないかと思います。

NOKIOOでも、普段はフルリモートで仕事をしていますが、年に3回、全員が集まる機会を設けています。オンラインでの仕事は効率的ですし、当社の働き方には欠かせませんが、一方で、全員が一つの場所に集まり、同じ空間で対話し、身体的な共同作業をすることにも意味があると考えています。

先日の全社セッションについても別の記事で書きましたが、普段は画面越しに仕事をしているメンバーが、同じ空間で時間を過ごし、身体的な共同感覚や共同体験を持つことで、そこでつくられる関係性や、言葉にならない感覚が、普段の仕事の中での判断や行動にもつながっていくのだと思います。

【関連記事:全社セッションを事業につなぐデザインと、AI時代に大事にしたい「統合」の思考】

 

NOKIOOで取り組んできたIからWeへの転換

振り返ると、僕自身もこの15年ほど、NOKIOOという小さな社会の中で、IからWeへの転換に取り組んできたのだと思います。

我々の行動指針であるNOKIOO Wayには『「私は」ではなく「私たちは」の精神で、チームパフォーマンスの最大化、メンバーへの貢献の視点で仕事・物事に向き合います。』という一文があります。

これをつくった当時のことを振り返ると、社内でIの視点、自分の持つ知的スキルをベースに物事を進めようとするメンバーがいました。個人の視点からすれば、それで仕事が進むと思っていたのかもしれませんが、僕は社長という立場から、組織全体を一つの生態系として見ています。

個人にとっては合理的であっても、組織全体で見たときには行き詰まりがある。個人が自分の能力を発揮するだけでは、組織として前に進まないことがあるわけです。

そうした経験から、Iの視点で物事を考えるメンバーには、Weの視点への転換を求めてきましたし、時には、その転換が難しければ、組織を離れてもらうという判断もしてきました。

また、最近NOKIOOで取り組み始めた「共創的キャリア自律」という考え方も、根本にはこの思想があります。キャリアというのは、自分一人でつくってきたものではなく、周囲の人と一緒につくってきたものであり、これからも周囲との関係性の中でつくられ、生かされていくものです。自分のキャリアを自分一人のものとして捉えるのではなく、Weの中で捉え直すということも、Iの成立要件にWeがあるという考え方につながっています。

 

企業のWeと社会のWeは、同じではない

ただ、ここまで考えてきて、一つ大きな違いもあると思っています。それは、企業組織のWeと、社会全体のWeは、同じようにはつくれないということです。

企業組織には、経営者という意思決定主体があります。経営者は、個々のメンバーの視点を超えて、組織全体の目的や方向性を見渡す立場にあり、共通目的を示し、最終的な意思決定をする役割です。もちろん経営者が常に正しいわけではありませんが、少なくとも組織の目的を定め、そこに向けてメンバーの力を結集するという構造があります。

一方で、社会には多様な価値観や利害が存在し、企業の経営者のように、社会全体を見渡して共通目的を定める単一の意思決定主体がいるわけではありません。

では、社会全体でWeとなり得る共通目的を定めることはできるのでしょうか。そもそも、Weになるためには、全員が同じ目的や答えを持つ必要があるのでしょうか。

例えば、気候変動という問題を共有していても、何を優先し、どのように解決するかについては、人によって考え方が異なります。そう考えると、同じ答えを持っているからWeになるのではなく、異なる答えを持ちながらも、同じ問題から逃れられない関係にあることを認めることが、社会におけるWeの出発点なのかもしれません。

ここは、まだ自分の中でも答えが出ていませんが、企業という共通目的を持ちやすい組織でWeを実践してきた経験を、社会にそのまま当てはめることはできない、ということは意識しておきたいと思っています。

 

企業の中でのWeの経験を、社会につなげていく

それでも、僕は企業組織の中でWeを育むことには、社会的な意味があると思っています。

企業の中で、他者と共に問題を引き受け、協力し、誰かに助けられ、自分も誰かを助ける。そうした経験を持った人が、仕事を終えて家庭に戻り、地域社会と関わり、自分の住む街や国のことを考えるときに、仕事の中で身につけた人間観や他者への見方が、家庭や社会での振る舞いにも影響していくのではないでしょうか。

NOKIOOが負っている社会的な使命は、そこにあるのではないかと思っています。

企業の中での組織づくりを支援することが、単にその企業の業績や生産性を高めることだけで終わらず、そこで働く人たちがIだけでなくWeの視点を持つようになり、その人たちが社会のさまざまな場所で、他者との関係性や共通の問題を引き受けていく。そういう間接的な形で、社会全体の空気を少しずつ変えていくことができるのではないかと考えています。

これは、当社が掲げている「人と組織の営みをアップデートし、日本のチームの景色を変える。」というミッションにもつながる話です。

AI時代において、個人ができることはますます増えていきますが、だからこそ「私は何ができるのか」だけでなく、「私たちはどうするのか」という問いを持つこと、そして、その「私たち」の範囲を人間同士の関係だけでなく、自然や地球という大きな生態系にまで広げていくことが大事なのではないかと思っています。

僕自身、まずはNOKIOOの経営や事業を通じて、職場や組織の中にWeを感じ、実践する機会を増やしていきたいと考えています。