2025.12.27
今年、どうしても残しておきたかった沖縄での経験
NOKIOOは昨日で仕事納めということで、オフィシャルな営業は終了しました。
今日からの年末年始は、残務に取り組みつつ、2025年を振り返り、新しい2026年に向けての準備の期間になります。
さて2025年は何の年だったかというと、NOKIOOにとっては人材開発・組織開発事業に完全事業転換をしてからの2年目という事でしたが、こうした個人的な短期軸の捉え方ではなく、歴史的・長期軸の捉え方で言うと戦後80年という節目の年でした。
年末にあたり、今年の中で強く残っている沖縄出張の時の出来事(戦争遺構めぐり)を一つ、個人的なログとして残しておきたいと思います。
僕が通り一遍ではなく、深く知ることにつながる遺構巡りをしたいというリクエストにお応えいただいた現地のパートナーは、志良堂仁さんと佐藤ひろこさん。志良堂さんは琉球新報社の在職中から戦争遺跡調査をライフワークにされています。佐藤ひろこさんは、沖縄で組織開発コンサルティングを手がけるコズミックコンサルティングのメンバーです。

6月27日にお二人にガイドいただき戦争遺構巡りをしましたが、その数日前の6月23日はまさに80年前に実質の沖縄戦が終結し日であり、沖縄到着直後に、佐藤さんから地元新聞を一式いただき、それらに目を通して、沖縄の人たちの想いをインプットしながらの遺構巡りのスタートでした。

ちなみに今年はいくつかの地域の方たちに、NOKIOOが中心になって浜松で学びカルチャー・学びコミュニティをどのように創造してきたか、それからNOKIOO自体が地域企業としてどのような組織作り・経営をしているかをお話しさせていただく機会があり、今回の沖縄訪問は、沖縄の経営者の越境学習コミュニティ「おきなわ経営dialogue」が立ち上がるということで、その第1回目にお呼びいただいて講演&対話会をしてきたのです。

なぜそもそも南国沖縄に来て、真夏の暑い中、戦争遺構巡りなのか?しかもかなりガッツリと、人づてで現地でガイドもできる方にお願いして…なのか。
それは自分でもよく分からないのですが、何となく原体験を振り返ってみると、小学3年生頃に学校の授業でアニメの「はだしのゲン」を見て衝撃を受けたり、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を読み、登場人物に憑依してみたり、小説「エトロフ発、緊急電」を読み、小説の中から戦時中に自分の身をおいて見たり、、、ということを子供のころからしてきていて、身近にない「戦争」を知ることへの義務感をなぜか感じているからです。
もちろん今回の沖縄出張でも、沖縄の美味しいもの、楽しい場所、南国の雰囲気を楽しませてもらいましたが、その表に見えるものの背景にある地域の感情や負っているものも知っていない中で、楽しいことだけを消費して帰ることに後ろめたさもあり。
今回の遺構巡りのスタートは、新都心と言われるおもろまち地区にある沖縄県立博物館でした。期間中はそのすぐ近くのホテルに滞在しており、ホテルの窓からは、目の前に広がる街並みと、その先にある小高い丘を、特に意識することもなく眺めていました。
志良堂さんから話を聴く中で、まず知ったのは、このおもろまち一帯が、太平洋戦争後の1953年に、米軍によって「銃剣とブルドーザー」で強制接収され、米軍人・軍属の家族住宅として使われていたエリアだったということでした。
そして、ホテルの目の前にあったその小高い丘が、「シュガーローフ」と呼ばれる沖縄戦の激戦地の一つであり、首里防衛線の西端として、日米両軍による激しい戦闘が行われ、多くの戦死者を出した場所だったと知りました。
それまで何気なく見下ろしていた風景が、その話を聴いた瞬間から、全く違うものに見え始めました。自分はただ街に滞在しているのではなく、その上に「乗って」生活していたのだという感覚に、後から静かに気づかされました。
ちなみに、このシュガーローフでの激戦によって、米軍は戦場における精神障害を患う兵士を多数出したことから、その後、前線での任務期間にローテーションを設けるというルールを作ったそうです。

その後は、
嘉数高台公園から、普天間基地を北に見ながら、海岸線沿いに1945年4月1日の米軍上陸からの展開と嘉数の激戦に関する話や、普天間をめぐる歴史、地域の問題・感情をお聴きしたり、その話を聴いている最中に真上をオスプレイが航行するのを体験したり、


【日本軍のトーチカ 進撃してくる米軍の砲撃でコンクリート製の施設だが相当に崩れている】

その後は南部戦線地域に移動し、自然壕のガマでの日本軍、住民が入り乱れながら戦線からの逃避をつづけた様子を、多くの取材をされてきた志良堂さんの生々しい話で聴かせてもらい、80年前に、このガマの中の様子がどうだったのだろうかと、想像できないながらも想像し、
ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念館で学徒隊一人一人が、どんな子だったのか、どんな最期を迎えたのかを知り、

糸満・摩文仁の平和祈念公園で沖縄戦に関わり亡くなった国籍、軍人・民間人問わずの全戦没者のお名前を刻んだ碑をめぐり、、

という遺構巡りでした。
今回の遺構巡りで感じたことを、言葉で表現するのは大変難しく、言葉での表現の間にまだギャップを感じている状態ですが、それでも、今回見聞きしたことを通して、自分は何を考えたのか、何点かは残しておきたいと思いました。
場所と一緒に話を聴くことで、出来事のリアリティは何段階も上がります。普天間基地を眼下に見ながら、ここが中部戦線の第一防衛ラインだったという話を聴き、地形や海岸線を自分の目で確かめ、そこにある弾痕を見ながら想像することで、何が起きていたのかが、知識ではなく現実として迫ってきました。
祈念公園の石碑に刻まれた一人ひとりの名前や、ひめゆり学徒隊の写真と、その生き方や最期に触れる中で、当たり前ではあるはずの「一人ひとりに人生がある」という事実を、改めて突きつけられました。同時に、戦争という社会の活動に組み込まれた瞬間に、その個々の人生が簡単に切り捨てられてしまうという矛盾と、向き合わざるを得ませんでした。
平和祈念公園が「人を憎まず、戦争を憎む」というスタンスでつくられていることにも、強い意味を感じました。あの場所で示されているのは、沖縄の感情の行き先ではなく、どのような姿勢でこの歴史を受け止めるのかという、静かな沖縄からの問いなのだと思います。
祖母から生前に、終戦後の朝鮮半島からの引き揚げの話を少しだけ聴いたことがあります。詳しく聴けなかったことはいまも心残りですが、本当に過酷な体験ほど、語ること自体が苦痛であり、正確に知ることには限界があるのだと、今回あらためて思いました。だからこそ、断片的な証言を集め、何が起きていたのかを組み立て、後世に伝えていく人たちの役割は、とても重いものだと受け取っています。
約10年ぶりに訪れた沖縄では、本土資本をベースにした開発が進み、経済的には豊かになっているように見える一方で、街の外観や新都心に並ぶホテルや店舗に、どこに沖縄らしさがあるのだろうか、という違和感も残りました。
おもろまち一帯には、沖縄戦の歴史として、米軍による強制接収やシュガーローフという激戦地がありました。そうした場所に刻まれているはずの記憶や歴史が、地域外資本による経済活動のフィールドになることで、ほとんど意識されなくなってしまう。そのこと自体に、地域の経済的発展のあり方についての問いを突きつけられた気がしています。
これは沖縄に限った話ではなく、地域が経済的に成長していく過程で、何を守り、何を手放していくのかという、どの地域にも共通する問いなのだと思います。地元資本がどれだけ意思を持ち、知恵を出し、地域の歴史や文化に根ざした形で経済をつくっていけるのか。その問いは、簡単に答えが出るものではありません。
こうしたことを、自分たちの目の前の仕事と直接結びつく話ではないかもしれませんが、知っておくこと自体が大事だと思い、NOKIOOの社内勉強会「edge NOKIOO」でも、この体験について話す機会をもらいました。学ぶこと、知ることを通して、一人一人が仕事や選択を通じて社会をつくっている以上、どんな前提や歴史の上に自分たちが立っているのかは、共有しておきたいと思ったからです。



















